人の器ってなんだろう?
~器の大きさと水の量~
人を評価する基準のような言葉で「器」が使われる事がありますよね?
「あの人は、なんて器の大きな人なんだ」
「あいつ、器のちっちぇーやつだなぁ~」
など。
人の「評価」は目に見えないものだから見える化するためのツールが現代では多くできているけど、「器」という表現はずっと以前から使われてるようです。
どうして「ただの容器」を使って表現するのでしょうか?
器と水
昔の人の言葉で、「人のココロは水の性質に似ている」というような意味のものがあります。
僕が最初にそういう言葉を知ったのは
「上善如水」という名の日本酒に出会った事。
上善水如
この「老子」の言葉を調べると
「水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る」
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水は万物を助け育てながらも自己主張をせず、誰しも嫌う低きへ低きへと下る。
というもの。
次に出会った言葉は
水五則
これは戦国武将の黒田官兵衛。晩年は黒田如水の言葉と言われています。
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
二、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
三、障害にあい、激しくその勢力を百倍しうるは水なり
四、自ら潔うして他の汚れを洗い、清濁併せ容るるは水なり
五、洋々として大海を満たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霞と化し凝しては玲流たる鏡となり耐えるもその素性を失わざるは水なり
苦しい、辛いと思った時に何度もこの「水五則」を読み返し、自分はこれでいいのか?と反芻したものです。
今ではすっかり「水五則」がココロに染み付いてきたので、普段の会話の中で「心が折れた」なんて言葉を聞くと
「あぁ この人の心は周囲から冷たくされてココロが凍ってしまい、氷柱のような状態になったから折れちゃったのかな? でも 情熱で温めてやればすぐに完全に元通りになるんだろうな」
という風に思考します。
さて、「器」ですが
上記のように、ココロ=水 と仮定すると「器」とは、中に入る水の量を示すためのものなんだとわかります。
小さな紙コップもあれば、海のような大器もあるのでしょうから「あの人のココロ(水)は1万リットルだね」と言うよりも「器」で表現する方が何となくわかりやすいですね。
人として生活していると色んな経験をします。
経験量は水の量。
急須でゆっくり水を垂らす生き方もあれば、ポンプでガンガンと水を送り込むような生き方の人もいるんでしょう。
器を紙コップだと考え、上から水(経験)を注ぐとすぐに満タンになり溢れてしまいます。
そして紙コップのサイズをアップをせずにそのままのサイズで歩む人は、それなりに充実していて、溢れた水を他の人に分け与える事も出来るのでしょう。
水が溢れたら紙コップをサイズアップする人もいるんだと思います。
サイズアップしたばっかりは、さっきまでの紙コップの水を入れ替えてもコップ内の水量が少ない。
満タンの時は充実していたのに、コップに対して水量が少ない時はとても不安。
幼少期なんかがわかりやすいです。
慣れた幼稚園から小学校に上がる時、「ずっとこのままみんなと幼稚園にいれればいいのに」と僕なんかは感じてましたが、その時は小さいコップに水は満タンだったと思います。
ですが小学に上がるという事が「紙コップの強制サイズUP」となり、入学したては気持ちがソワソワして毎日が心配で心配でしょうがない。(やがて水は溜まっていくが)
それなりの年齢になり、生活の基盤ができてくると、「紙コップの強制サイズUP」は終了し、「常に己の進路を求めて止まざる」は自ら望んだ人だけの則となり、望まない人の上から流れてくる水量は少量安定。
コップのサイズもそのままをキープしながら時を重ねていくんだと思います。
また、自ら望まなくても色んな経験をしなければならない人もいます。
コップのサイズアップしているのでしょうか。
水の性質にならい、よどまないように常に動き続けていたいですね。それがきっと「常に己の進路を求めて止まざる」という事なのでしょう。